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2007年2月18日日曜日

夏休みの仕事

学校に通うころには、長い夏休みがあって、でも休みだというのに宿題はたくさんあって、なんだかんだしているうちに長かった夏休みがあっという間に終わってしまったと感じたことは多い。暴力的なエネルギーが降り注がれる中、休みなんだと決め込むことなく、淡々と仕事を進めていくと何かは形に残せる。夏には夏休みという感覚を捨てた方がいいのかもしれない。

目標の果実


実のある枝につながらない木を登っていっても、目的の実にはたどり着けない。やみくもに登っていくことがいいのかどうか分からない。でも、目標とする実が、ある枝にずっとくっついているというものではなく、時に連れてどこかの枝に花が咲いてその後結んでいくものであるとすれば、登り始めた頃には実のなかった枝にも、先には実が結んでいたりする。

人生のシナリオを書く

自分の人生のシナリオぐらいは自分で書きたいものだけど、そのシナリオ通りに人生は展開しない。そのシナリオにしたがって演出しようにも、そこに登場するあまりにも多くの人や、ものや、ことを自分がコントロールすることはできない。それよりも何よりも、そもそも、そのシナリオの物語をいつ終えるかということすら、普通は自分で決めることができない。

支える喜び

支える人と支えられる人、支える人がエネルギーを注いで支えてあげる。エネルギーを注ぐ人が与える立場で、支えられる人が受け手なのかというというとそうとはいえないところが面白い。支える人は、支えられる人にエネルギーを注いでいるときに、自分自身の存在が有意義なものに感じられ、生きている喜びというものを得ていたりする。

目的は目標地点に行くこと?

徐々に上がっていくという感覚やその途中で見える風景の美しさ。そういうものにひかれて登山道を登っていくことが楽しみであるとするなら、山登りの目的は登ることそのものにあるといえる。目標地点への到達を夢見つつも、そこにいたる日々の営みそのものを楽しんでいるのかもしれない。

自分を探す必要などない

本当の自分はそもそもの自分自身でしかなく、人の目、世間の目など、自分以外のものに映った自分は、自分の一部を映した自分でしかない。映された自分を本当の自分だと錯覚するとき、本当の自分の身体の居場所を見失って、自分探しなどという訳の分からないイメージをもつことになる。自分の身体を常に確認しておけば良い。

便利な道具に囲まれて

こういうこともあった方が良い、ああいうこともあった方が良い。ものでも、ことでも、ないよりあった方がいいなんていう思うつきで足したり溜めたりして行くと、いずれ抱えきれない大きなお荷物を背負い込むことになる。ないよりあった方が良いと思ってしまっていたものが、実際にはない方が良いものであったと気づくのは、抱えきれなくなってしまってからだったりする。

いきいきと踊る

いきいきとした踊りを踊るには、無理やり強制されて手取り足取り踊らされてもだめで、自分で自分の体を自由に動かす必要がある。周辺のものに束縛されて生きているのだろうけど、自分自身を拘束するものがないというふうに感じられるようになった時に初めて、自分で身体を動かして踊ることができる。

無限のストーリー

たくさんのポイントがあって、そのポイントをどのようにつなぎ合わせてストーリーを作っていくかということは、まったく自由なこと。自分自身の生きるストーリーに決められた道とか、外れた道などというものはなく、無数のポイントをじぶんなりにつないで行けばいいだけ。そのストーリーの数は無限にあるといえる。

目標設定の常識

山頂を目指す登山道の途中には、何合目と呼ばれる途中途中の目標地点がある。遠い目標やすぐには到達できないようなゴールに向かって進もうとするとき、たどり着くことが明確に想像できる中継地点があれば、それらを超え続けているうちにゴールに達することができる。

互いに向き合う

コミュニケーションをうまくとろうとする時に一番必要なものは、互いを尊重して分かり合うことだと言ったところで、そもそも始めに相手と向き合うという姿勢から始まるのかもしれない。会話でもメールのやり取りでも、まず最初のスタートは相手と向き合うということで、それなしには、理解もコミュニケーションも成り立たない。

ちからを一つに集める

力を一つにするときは、綱引きのように一本の綱をみんなで引くようにしているとは限らない。それよりも、ばらばらに引っ張った力が一つになるようなことの方が多いのかもしれない。力はどこでひとつになっているかとういうと、それは目的や目標の部分、ひとりひとりの姿勢や思惑が違っても、目標が同じであれば、集まった力をひとつにすることができる。

手を尽くすすための手

ものごとに対処するときに、さまざまな手立てがあることを知っている場合と、限られた方策しか知らない場合とでは、望ましい結果の得られる率は違う。一長一短ある手段を取捨選択したり、ときには組み合わせてみたり、十分に手を尽くすためには、できるだけ多くの道具の使い方を知っているほうが良い。

流れの中で自由

時の流れを止めたり変えたりすることはできないのだけれど、その時の大平原の中で、どのように振る舞い、どのように流されていくのかということは自分自身の意志で決めていくことができる。決まりきった道しかないように思えている時は、ちょっと周りを見渡して、自由に振舞える大きな時の流れの中にいるのだということを確認したほうがいいのかもしれない。

ピタリとあわせることもない

何をどうもっていくかと迷うときに、定番と感じてしまうようなものに合わせて、何の疑いもなくこれしかないと決めつけたりしない方がいい。違和感を感じるようなものであっても、実はその方がふさわしいものであったりすることもある。

いつでも舞台の上にいる

あこがれのステージに上がることがかなわない夢なんだと思いながら、自分自身が、今すでに、かげがいのないステージの上に立っていることに気づかなかったりする。今立っているステージで踊り始めれば、ふと気づいたときに、あこがれのステージで踊っていることとになっていたりするかもしれない。

不自由な中でこそ

まったくの自由で何をしても良いといわれて何もできないということもある。逆に、ここからここまでという枠が設定されて、不自由な立場に置かれた方が、目標を見定めることができて、達成感が持てるようなことに携わることができたりする。

眺めていても始まらない

中はどうなっているんだろうか、どれにすればいいんだろうか、眺めながら迷っていても、そこから先に進むことはできない。ある時は決断し、ある時は流れに身を任せ、とにもかくにも、一つ決めて、中に飛び込むことによって次につながる発見と出会うことになる。ただただ決めあぐねて眺めているだけでは何も始まらない。

ゴールがあればゲームになる

目標を定めると、その目標に向かって前に進んでいきやすくなる。進んでいく途中でも、目標との距離を測りながら、その距離が縮まっていくことに喜びを見出すこともできる。ひとたび目標を定めて歩んでいくコツも身につけると、さらにその先に進んでいくこともしやすくなる。自分自身のゴールを設定していけば、生活そのものがゲームに感じられるようになる。

時には何もしないで過ごす

時には、起きているときに何もしないで過ごすということをしたい。そういう時を過ごすとあたりまえではあるが大事なことに改めて気づくことになる。その大事なことというのは、時というものが、自分の活動に関わりなく過ぎていくものだということ。ずっと動き続けていると、この当たり前のことを忘れてしまっていたりする。