2007年2月28日水曜日

ビデオ 撮影 編集 ノート

Uシネマ・カンパニー 編著  ユーリード出版

コンパクトに撮影と編集のノウハウがまとめられています。
あまりに基本的なことすぎて、
誰にも聞けないなと思えるようなことについても解説されています。

編集ソフトのメーカーが作った本であるためか、素人が誤りやすい点について、
うまく触れています。ソフトを初めとして、メーカーの一覧なども示されています。

今まで読んだ入門書の中で、一番うまくコンパクトに情報がまとめられていると感じました。

2007年2月27日火曜日

杉並 住民ディレクター 面白くなりそうです。

日曜日に、飛び入りで杉並区の住民ディレクターの集まりに参加させていただきました。
熱心な皆さんのやり取りを楽しませていただくと共に、いろいろな情報交換もできました。
プリズムの岸本さんの活動の本音を知ることもでき、そのことも大変有意義でした。

岸本さんがおっしゃるように映像をつくって見せ合うことが、
課題解決の行動を誘発するのだということには大いに共感できます。

映像をとりまく状況はどんどん面白くなっているように感じます。

ちなみにこの日の昼間に観たメディア関連の展覧会は面白くありませんでした。
インタラクティブといっても、人と人との関係を深めていくことへの意識があまり感じられません。
メディアというものを捕らえるときにも、主役が人であるということを常に意識しておきたいと思います。

2007年2月22日木曜日

個人と社会 花と空

白い梅の花を見て
きれいだなと感じ

ふと立ち止まって
何をきれいだと思ったのかと
考えてみれば

その対象は
空の色と花の色のコントラスト
であったことに気づきます。

個人と社会
ともに映えるのも
花と空のように
互いのコントラストに
よるものなのかもしれません。
(通勤途中の風景より)

面白い国 日本に

美しい国 日本より、面白い国 日本 を目指した方が良いような気がします。
誰でも、面白い人生を生きることを目指し、社会もまた面白い社会になっていくというようなストーリーを描いて、世の中劇場の話が進んでいけば、それこそ面白いと思います。

2007年2月21日水曜日

つっこみ力

パオロ・マッツァリーノ 著
ちくま新書 645

メディアリテラシーという言葉を、つっこみ力と言い換えようという提言の元、世の中のさまざまなことがらに対して、つっこみがなされています。戯作者と自称する著者は謎の人物。とはいうものの、参考文献がしっかり記載されていて、文体やタイトルや著者名のイメージとは違って、冷静に考察して書かれているように思われます。正しさよりも面白さを追求しようという提案には大いに共感できます。世の中であたりまえと思えるようなことをもう一度見直そうと思うときには、さまざまなヒントを与えてくれる一冊です。

2007年2月19日月曜日

引越し作業 ほぼ完了

前のブログでUPしていた「ほんの少しのご紹介」「たまの落書き」の内容をこのブログにコピーしました。これでほぼ引越し作業が終了し、2月一杯で、前のブログを閉じようと思っています。実際の住居と同じで、しばらく生活した場所から、いざ引越しするとなると、何をどう運ぶかってことも結構面倒です。ブログも情報発信のすみかといえばすみかで、居を構えるというイメージに近いものがあります。

2007年2月18日日曜日

夏休みの仕事

学校に通うころには、長い夏休みがあって、でも休みだというのに宿題はたくさんあって、なんだかんだしているうちに長かった夏休みがあっという間に終わってしまったと感じたことは多い。暴力的なエネルギーが降り注がれる中、休みなんだと決め込むことなく、淡々と仕事を進めていくと何かは形に残せる。夏には夏休みという感覚を捨てた方がいいのかもしれない。

目標の果実


実のある枝につながらない木を登っていっても、目的の実にはたどり着けない。やみくもに登っていくことがいいのかどうか分からない。でも、目標とする実が、ある枝にずっとくっついているというものではなく、時に連れてどこかの枝に花が咲いてその後結んでいくものであるとすれば、登り始めた頃には実のなかった枝にも、先には実が結んでいたりする。

人生のシナリオを書く

自分の人生のシナリオぐらいは自分で書きたいものだけど、そのシナリオ通りに人生は展開しない。そのシナリオにしたがって演出しようにも、そこに登場するあまりにも多くの人や、ものや、ことを自分がコントロールすることはできない。それよりも何よりも、そもそも、そのシナリオの物語をいつ終えるかということすら、普通は自分で決めることができない。

支える喜び

支える人と支えられる人、支える人がエネルギーを注いで支えてあげる。エネルギーを注ぐ人が与える立場で、支えられる人が受け手なのかというというとそうとはいえないところが面白い。支える人は、支えられる人にエネルギーを注いでいるときに、自分自身の存在が有意義なものに感じられ、生きている喜びというものを得ていたりする。

目的は目標地点に行くこと?

徐々に上がっていくという感覚やその途中で見える風景の美しさ。そういうものにひかれて登山道を登っていくことが楽しみであるとするなら、山登りの目的は登ることそのものにあるといえる。目標地点への到達を夢見つつも、そこにいたる日々の営みそのものを楽しんでいるのかもしれない。

自分を探す必要などない

本当の自分はそもそもの自分自身でしかなく、人の目、世間の目など、自分以外のものに映った自分は、自分の一部を映した自分でしかない。映された自分を本当の自分だと錯覚するとき、本当の自分の身体の居場所を見失って、自分探しなどという訳の分からないイメージをもつことになる。自分の身体を常に確認しておけば良い。

便利な道具に囲まれて

こういうこともあった方が良い、ああいうこともあった方が良い。ものでも、ことでも、ないよりあった方がいいなんていう思うつきで足したり溜めたりして行くと、いずれ抱えきれない大きなお荷物を背負い込むことになる。ないよりあった方が良いと思ってしまっていたものが、実際にはない方が良いものであったと気づくのは、抱えきれなくなってしまってからだったりする。

いきいきと踊る

いきいきとした踊りを踊るには、無理やり強制されて手取り足取り踊らされてもだめで、自分で自分の体を自由に動かす必要がある。周辺のものに束縛されて生きているのだろうけど、自分自身を拘束するものがないというふうに感じられるようになった時に初めて、自分で身体を動かして踊ることができる。

無限のストーリー

たくさんのポイントがあって、そのポイントをどのようにつなぎ合わせてストーリーを作っていくかということは、まったく自由なこと。自分自身の生きるストーリーに決められた道とか、外れた道などというものはなく、無数のポイントをじぶんなりにつないで行けばいいだけ。そのストーリーの数は無限にあるといえる。

目標設定の常識

山頂を目指す登山道の途中には、何合目と呼ばれる途中途中の目標地点がある。遠い目標やすぐには到達できないようなゴールに向かって進もうとするとき、たどり着くことが明確に想像できる中継地点があれば、それらを超え続けているうちにゴールに達することができる。

互いに向き合う

コミュニケーションをうまくとろうとする時に一番必要なものは、互いを尊重して分かり合うことだと言ったところで、そもそも始めに相手と向き合うという姿勢から始まるのかもしれない。会話でもメールのやり取りでも、まず最初のスタートは相手と向き合うということで、それなしには、理解もコミュニケーションも成り立たない。

ちからを一つに集める

力を一つにするときは、綱引きのように一本の綱をみんなで引くようにしているとは限らない。それよりも、ばらばらに引っ張った力が一つになるようなことの方が多いのかもしれない。力はどこでひとつになっているかとういうと、それは目的や目標の部分、ひとりひとりの姿勢や思惑が違っても、目標が同じであれば、集まった力をひとつにすることができる。

手を尽くすすための手

ものごとに対処するときに、さまざまな手立てがあることを知っている場合と、限られた方策しか知らない場合とでは、望ましい結果の得られる率は違う。一長一短ある手段を取捨選択したり、ときには組み合わせてみたり、十分に手を尽くすためには、できるだけ多くの道具の使い方を知っているほうが良い。

流れの中で自由

時の流れを止めたり変えたりすることはできないのだけれど、その時の大平原の中で、どのように振る舞い、どのように流されていくのかということは自分自身の意志で決めていくことができる。決まりきった道しかないように思えている時は、ちょっと周りを見渡して、自由に振舞える大きな時の流れの中にいるのだということを確認したほうがいいのかもしれない。

ピタリとあわせることもない

何をどうもっていくかと迷うときに、定番と感じてしまうようなものに合わせて、何の疑いもなくこれしかないと決めつけたりしない方がいい。違和感を感じるようなものであっても、実はその方がふさわしいものであったりすることもある。

いつでも舞台の上にいる

あこがれのステージに上がることがかなわない夢なんだと思いながら、自分自身が、今すでに、かげがいのないステージの上に立っていることに気づかなかったりする。今立っているステージで踊り始めれば、ふと気づいたときに、あこがれのステージで踊っていることとになっていたりするかもしれない。

不自由な中でこそ

まったくの自由で何をしても良いといわれて何もできないということもある。逆に、ここからここまでという枠が設定されて、不自由な立場に置かれた方が、目標を見定めることができて、達成感が持てるようなことに携わることができたりする。

眺めていても始まらない

中はどうなっているんだろうか、どれにすればいいんだろうか、眺めながら迷っていても、そこから先に進むことはできない。ある時は決断し、ある時は流れに身を任せ、とにもかくにも、一つ決めて、中に飛び込むことによって次につながる発見と出会うことになる。ただただ決めあぐねて眺めているだけでは何も始まらない。

ゴールがあればゲームになる

目標を定めると、その目標に向かって前に進んでいきやすくなる。進んでいく途中でも、目標との距離を測りながら、その距離が縮まっていくことに喜びを見出すこともできる。ひとたび目標を定めて歩んでいくコツも身につけると、さらにその先に進んでいくこともしやすくなる。自分自身のゴールを設定していけば、生活そのものがゲームに感じられるようになる。

時には何もしないで過ごす

時には、起きているときに何もしないで過ごすということをしたい。そういう時を過ごすとあたりまえではあるが大事なことに改めて気づくことになる。その大事なことというのは、時というものが、自分の活動に関わりなく過ぎていくものだということ。ずっと動き続けていると、この当たり前のことを忘れてしまっていたりする。

自分を良く見せようとしてみても

他人にどう見せるかということを意識して着飾ってみたとしても、結局は自分自身の中身の様子がそこには反映されてしまう。ということは、自分自身の中に見せたい自分というものがあれば、それが結局は外に向かって表現されていくことになる。人に見られる自分の姿のありようはとても重要なんだけれども、それは人にすぐに見えるわけではない自分自身の中身の姿を映すものとなる。

初めから合うものはない

自分に合ったものを見つける。そういう気持ちで探してみても、そうは都合よく自分に合うものが転がっていることはない。あるものに自分を合わせていく。そういう気持ちで歩かなければ、実は自分に合うものなんて見つからない。ただ、自分ばかりが合わせるのかというとそうでもなく、相手である器のほうを変えていくという働きかけも大いに必要だったりもする。

決断を迫られるとき

すべて手に入れるとかすべてうまくいくとか、あきらめたり断念したりすることがなく生きていければそれに越したことはないかもしれない。でも、ほとんどの場合、そうではなくて、こちらをとれば、あちらを捨て、あちらをとれば、こちらを捨てざるを得ない状況に出くわすことになる。どちらをとるかについては決断するしかない。決断にあたっては、どちらを選ぼうと選んだことに自分自身が責任を持つという気構えが必要になる。

単純じゃないからこそ学べる


何かを学ぼうとしたり、身につけようとしたときに、そのものが単純なものでないからこそ良く学べたりする。単純で分かりやすく簡単に理解できたりすることは身につけるというほどのものではなく、そのことについて知ったり分かったりしたところで自分自身がより面白いものになっていったりはしない。面白く学ぶためには、複雑なものに逃げずに向かっていかなければならないのかもしれない。

縁は円のつながり

縁というものが、円が重なり連なってひと続きになったものであるとすれば、過去の縁は自分自身がどうすることもできない運命ともいえるもので、これからの未来の縁は、さまざまな偶然の積み重ねによってできあがるストーリーだといえる。振り返ってみたときの運命に対して後悔することのないストーリーを演出していきたい。

登り始めて見える手がかり

手がかり足がかりがまったく見つからなかったのに、一旦登り始めると、あれほど見つからなかった手がかりや足がかりが、順に目の前に現れてくる。霧の中でも非常に近い目標が見えるように、ひとつひとつ進む中で、次のステップが道先を案内してくれるかのように登場する。

落としどころに落ちていく

掲げた目標に向かって進むことができるかどうかは、その目標が落としどころとなるようなものであるかどうかで決る。ものごとが落ちていくように向かうことのできる目標でなければ、みんなで進んでいくことは難しいし、逆に落ちていくように向かうことができるものであれば、みんながいつの間にか同じ目標に向かっているようになる。

いつのまにか支えるはめに

支えてもらうはずの道具や組織は都合の良い便利なものだと思っているうちに、ふと気づくと、いつの間にか、エネルギーを注ぎ込まないと維持することのできないものになっている。使わない方が、いっそのことない方が、ずっとうまく行くことに気づかないか、もしくは気づきながらも、それを無視することのできない状況になっていたりする。

どうしてその舞台を目指す?

誰しもが必ず上がらなければならない舞台というものはない。もし、目の前の舞台に上がらなければならないと信じ込んでいるとしたら、どうしてそう思ってしまったのか少しひいて観たほうがいい。もしかすると、舞台の持ち主や舞台に上げることを商売にしている人からのアドバイスを知らず知らずのうちに受けてしまっただけなのかもしれない。

次を見出すためには

実際に試したり、挑戦したり、自分でことを始めないことには、次のステップは見えない。この道の先はこうなっているとか、こうなっているはずだとか、知っ ていたり、聞いていたりしたところで、次のステップに進めるわけでもなく、次に行きたければ、次の手前までは自分で行くしかない。

2007年2月17日土曜日

ウェブが創る新しい郷土 地域情報化のすすめ 

丸田一 著
講談社現代新書1873

 地域情報化とは情報化という地域づくりであるという視点で、地域プラットフォームや地域メディアの果たす役割が述べられています。シニアSOHOを初めとして活発に地域で活動するネットワークの事例についても細かく紹介されていて、人が面白く生きていくための参考になるようなヒントが散りばめられています。家族SNSという著者自らのSNSの利用の仕方も、これからの展開を予感させるものです。不安定なWeb空間を利用して新たな地域を生むというような発想は、これからの社会のあり方を的確にイメージしたものだと思えます。Web2.0って何だと、いろいろいわれる中で、ぜひ呼んでおきたい一冊です。

2007年2月13日火曜日

引越しも楽じゃない

ココログでの更新をやめて、このブログに 引っ越そうと思いながらも、ココログにUPしたものをどうしようかと考えていたのですが、たまの落書きとして書いていた40枚の内、10枚分をとりあえず切り貼りして持ってきました。ブログの引越し作業も楽じゃなさそうです。

大げさなものから離れてみる

複雑であったり、大掛かりであったりする機械や組織などの仕組み。こうしたい、ああしたいということが、そういう大げさな仕組みがないとできないなんて思い込まないほうがいい。本当に望んでいるちょっとしたことは、自分自身がそのちょっとしたことをしさえすればできてしまう。移動すること、運ぶこと、つくることなど、中には大げさな仕組みを使わないほうがうまくいくこともたくさんある。

たくさんのものさし

自分の身の置かれている状況を知るには、ものさしをあててみればいい。でも、たまたま目の前にあるものさしや、誰かにあてがわれたものさしで、疑うことなくその測った値を信用してしまうようなことだけは、避けた方がいい。ちょっと見渡してみれば、いろんなものさしがあることに気づくから、、、物差しが違えば、物の大きさなんかも違って見えてくるから、、、

サポーターの役割

サポーターの支えは、あくまで支えで、サポーター自身がすべてを背負って立つものではない。まったく自立できないものをサポートし続けることは、まずもってできないことなんだと考えていたた方が良いかもしれない。そもそも自立できないものを支え続けることの意義があるかどうかということを、まず初めに確認したほうが良い。

決った道はない

道らしい道に見える前後のずっと後ろとずっと前には道らしい道はない。ずっと後ろはなんともしようがない過去で、ずっと前は何とでもできるかもしれない未来。どれぐらいまでが道に見えて、どこから先が薄ぼんやりとしているかは、人それぞれで、どんな道であろうと、それが自分の歩む道。

超えなきゃならないハードル

ハードルを越えて突き進んでいく、その先にゴールがある。そう思えるのは、そのハードルのある道を進むことをイメージしているからで、ハードルを越えなくても前に進んでいくことはできる。で、ハードルのない道を行くことのほうが結構大変だったりするかもしれない。どっちにしろ、必ずしも超えなければならないハードルがあるなんて思い込まないほうがいい。

一緒って何が一緒?

同じところにいたからといって、同じであるとは限らない。離れたところにいても、同じだということもある。一緒に何かする。とか、一緒に何かを目指す。とかいうことと、一緒にいる。ってことは、一致するわけではない。一緒なら一緒だなんて思い込まないほうがいい。で、そもそも、一緒じゃなくて、いろんなところで、いろんなことを考えたり、したりしていた方が、ずっと面白そうだったりする。

コントロールの心得

自分または自分たちではどうにもコントロールできないというものがある。だからといって何もかもがコントロールできないわけでもない。すべてをコントロールできるなどという誤解をすることなく、でもすべてがコントロールできないものだというように開き直ることもなく、コントロールするということに日々思い悩みながら付き合っていくしかない。

話題を追いかけても

話題を追いかけているだけでは、浮かばれない。浮かばれないどころか自分の居場所を見失い、歩いて行けるはずの道を歩くという実感すら失くしてしまう。落っこちてしまうなんていうのは錯覚で、手を離したところで何の怪我をすることもない。気づけば簡単なことなんだけど、、、

足元の様子は分からない

自分が立っているところが確かなもの、しっかりとしたものだと思いたい気持ちは分かるけれど、実際にはゆるぎないものなどなく、危うさの上にみんな立っている。なるべくそこのところを見ないようにしていることもあるけれど、いっそのこと、そういうものの上にいることを認めてしまった方が実はしっかりとした身の置き所が見えてくるのかもしれない。

額縁の中の作品

美術作品が額縁に入って展示されている。商業デザインその他のものもまた、ある種の額縁に入って存在してるのかもしれない。人もまた、立場や所属している団体という額縁に入っているのかもしれない。誰もがみんな額縁の外でこそ生きていられるのに、、、

2007年2月5日月曜日

あつぎ映像メディアフォーラム 楽しめました

浜谷修三さんのセミナーで、仕事を始められたばかりのころの映像作品を見せていただきました。
飛ばない手作りヘリコプターの製作者を対象としたドキュメンタリーですが、最後のオチもさることながら、
その主人公の語る言葉が印象的でした。
航空の工学の発達をご存知ですかというような質問に対して、大きなものが飛ぶということとは別に、
みんなが気軽に買い物に使えるようなものが飛ぶようになることが理想であるというような回答をされます。

映像製作においても、映像製作の文化が広まり、多くの人々が、自ら映像製作をして情報発信していくようなイメージと、その主人公の言葉がなんとはなしに重なりました。

事例報告やトークセッションで紹介されたり語られたことも含め、続けていけば、何かが起こってくるという予感がします。

2007年2月2日金曜日

自分のサーバが必要かも

Googleのサービスには、とても便利なものが多く、とにかく使えるものをいかに使うかという工夫をしてみて損はないと思います。携帯電話とあわせて活用すると、メモやToDoを送信してGmailで閲覧、整理するなど、面白い使い方もできそうです。が、ひとかたまりの情報があって、そのサイトを立ち上げたいと考えたとき、そういう場合には自前のサーバを持って、そこにUPした方が良さそうです。広い海での航海を続けていくには、裸一貫で泳ぐのではなく、小さくてもボートに乗って渡った方が安全です。

2007年2月1日木曜日

YouTube革命

神田敏晶 著  ソフトバンク新書029

フォークソノミー クリエイティブ・コモンズなど、映像を取り巻く世界のこれからを考える中で重要なキーワードについても理解することができ、YouTubeの登場によってマスメディアのあり方も大きく変わらざるを得ないという状況への認識を持つことができます。映像関連の今後を考える上で、ぜひ読んでおきたい一冊です。